羽前絹練のあゆみ




創立から激動の時代へ

 羽前絹練株式会社は一九〇六(明治三九)年六月に創立された当地方では最も古い織物精練会社の一つです。
 織物精練とは、製糸工場で作られた生糸を織物工場で製織した後に、その織物を①糊抜→②脱水→③乾燥→④輸出によって精練加工するもので、織物業の最終加工工程であるといえます。
 創業以来、羽前織物株式会社の精練工程を担うものとして発展し、一九二四(大正一三)年三月には鶴岡織物株式会社系の精練会社を吸収して地域独占的な精練会社となりました。
 人絹への対応と染色業への進出はすでに一九二九年段階で見られ、輸出絹織物染色工場設備を新設し、染色業としての届けを商工大臣に提出しました。一九三四年に両毛輸出織物整染工業組合に加入して人絹染色の技術を導入、一九三五年には人絹への染色設備への投資を行うなど、本絹織物から人絹にシフトしながら精練事業を拡大していきました。
 日中戦争勃発後は日満支経済ブロックに対応した織物輸出の増加に乗って経営が拡大しましたが、精練染色の原料品、燃料の入手難によって経営は困難になります。さらに、一九四〇年一月、第二絹撚株式会社鶴岡工場から出火、建物一棟、土蔵、工場の廊下を焼失、さらに商工省鶴岡輸出絹織物検査所の建物全部が焼失するという事態になりました。戦時統制の強化と欧米への貿易途絶による染色原料入手難と原料燃料の配給割合の減少により加工数量は最盛期の三分の一に減少します。こうして一九四二年、非常時国策として山形県下一円の織物加工業の整理統合が進められ、羽前絹練株式会社は山形県織物整理精練有限会社に営業権を譲渡し出資者となりました。以降、機械、建物、土地はそのまま同有限会社に賃貸されて山形県織物整理精練有限会社鶴岡工場として国策に沿って絹織物精練業と染色業が継続され、羽前絹練はその利益配当金と賃貸料を受け取るだけとなり、工場と従業員はそのまま同所で操業を続けましたが、羽前絹練株式会社としては事実上操業停止状態となっていました。
 戦時から戦後にかけての織物統制の時代がようやく終わると、山形県織物整理精練有限会社は一九五一年三月に解散し、同年五月一日から再び羽前絹練株式会社として操業を引き継ぎました。
 ここに羽前絹練は輸出絹織物整理精練業として再出発したのです。


幾多の危機を乗り越え新時代へ

 終戦後、朝鮮戦争特需を契機にした戦後復興の波に乗って再び繊維産業が発展の兆しを見せ、アメリカの景気の上昇によって絹織物輸出が順調に伸長していきました。
 しかしその後、合成繊維の台頭による海外市場での絹織物の売行不振、繊維製品をめぐる日米貿易摩擦による経営危機など、高度成長期は危機の時代でした。
 さらに日中国交回復後、中国の絹織物が輸入されるようになり産地間競争は熾烈となりました。
 羽前絹練はこんな時代の中、内需への転換を図り経営危機を乗り越えていきました。全国の絹精練業者が合成繊維加工に転換していく中、自らは絹織物精練に留まり、積極的に県外に営業活動を展開し、設備投資を行いました。全体として市場が縮小する中で存続・残存することで、国内絹織物産地からの精練加工の受注が羽前絹練に集中し、結果としてシェアを伸ばしていきました。後進地域としてのハンデを逆手に取ったこの「残存者利益」という生き残り戦略によって経営危機を乗り越えていきました。
 さらに捺染部門に進出し業務を多角化。スカーフ、マフラー、アクセサリー商品のブームに支えられて、精練、染色、プリント業務の拡大によって、伝統的な絹織物製品を凌駕する大衆向けの新製品を販売することに成功しました。
 しかし、一九七三年に発生した石油危機は会社に深刻な打撃を与えました。売り上げは急減し、生産計画の見通しもできない状況となりました。石油危機後の経営の歩みは、アメリカへのプリントによる絹のスカーフ輸出が停滞すると、オイルマネーの還流により潤ったサウジアラビアやシリアなどの産油国で無地染の絹の高級チャドルの需要が増え、輸出市場を再開拓することによって危機を克服していったのです。
 その後の第二次石油危機による試練に対しては、省エネ・省力化によって一人あたりの加工高の向上を図るなどして海外市場での競争に勝ち抜いて危機を克服し、一九八五年のプラザ合意や一九九一年の湾岸戦争などに起因する輸出の不振、バブル経済の崩壊や長引く平成不況など国内外ともに深刻な需要停滞に陥る時代の転換点の中、新規技術の特殊加工(ピーチ加工)部門の充実を図りながら、新たな可能性を模索し続けています。